2014年2月19日水曜日

「拡散」という暴力

SNSで「拡散希望!」とある投稿をたまにみます。内容はいろいろありますが、中でも「動物虐待犯!」といって虐待の現場と虐待をしていると思われる人物の写真をのせ、「ゆるさない」というような扇動的な言葉でSNSの中を、善良な動物を愛する人たちの手によって広がっていきます。これらの投稿をみながら「拡散」することの意味を考えてみました。

例として、一匹の小型犬を首つり状態にし、二人の若い男性が中指を立ててカメラに向かって笑いながらアピールする写真がありました。投稿した人たちは「ひどい」と憤慨し、私は軽率にも「犬はたしかにかわいそう。だけど国や文化、事情なども考慮すべき」といって暗に投稿を批判してしまいました。投稿した人は「動物を苦しめることはいかなる文化・国でも悪」だし「この写真に裏も表もない(つまり彼らは見た通りの悪い人たちだ)」という返答をいただきました。険悪になるのもよくないので気分を害したことを私は謝罪したんですが、やはりどうなんだろうと考えていたのです。

結論としては、私の意見としては、裏も表もある可能性を考慮して拡散するかどうかの判断をすべきだということです。

例えば、この写真の場合、明らかに日本人とは異なる容貌の人物でしたので、すぐに画像検索したら、やはり同じような印象を得た人たちの意見がみつかりました。東南アジア、とくに犬を食文化の一部として扱っている国の人では・・という意見もありました。第一の違和感はそこです。それがどこの国の人かが重要ではなく、私が真っ先に感じたのは・・・

日本人同士が日本語で外国人である可能性のある人物の写真を拡散することにいったいどういった効果があるのだろうか・・・? でした。

もし「犯人を突き止める」のが目的ならば、あまりにも無意味な方法でしょう。冷静に「そもそもこれは日本人?私が日本人フレンド中心のSNSで拡散して効果がある?」と自問すべきだと思います。

次に、かりに日本人だとしても「SNSで拡散」することがもたらす結果とはいったいどうんなものがあるのでしょう?その顔を見たらピンとくる人までにその投稿がリーチしないことには結果に結びつきません。大抵の場合、その人物を特定できる段階に到達する前に「拡散の連鎖」が終わってしまうと考えるのが自然です。

じゃぁ仮に、到達したとしましょう。「あ、これは俺の友達の○○だ!」と思った人のフィードに流れていったとしましょう。それからどうなるか・・? その人は「これはどこどこに住むなんとかってやつだ」って投稿をするでしょうか?いや、もしかしたらSNSで友達かもしれないし、親友かもしれない。そうだとすると、到達したとしてもそれからなんらかの制裁に繋がる可能性は低いと思います。せいぜい、「おい、お前ひどいことしてんだな。やめろよ」と忠告される程度でしょうか。

ひとつだけ、制裁に繋がる可能性があるとしたら、その虐待をしているらしき人物の「敵」に投稿が到達した場合です。その場合、極端なケースでは警察に行ってその写真を見せ、その人物の身元を明かすかもしれません。ただ、もしそうなったとしても、警察は動くでしょうか?私は分かりません。ただ、これが拡散することで得られる最大の成果でしょう。

この成果を得られるまで「拡散」に加担したひとはキャンペーンを続けていくのでしょうか?おそらくNOでしょう。一過性の行動であることは間違いないでしょう。虐待された動物の飼い主でない限り、それほど関わろうとする意志は持続しないと思うのです。「拡散」に参加した、という段階でおそらく満足であり、制裁されるまで満足できない、という姿勢ではないでしょう。

さらに、別の見方をしてみます。この虐待をしている人物が「反省・改心」して、今は虐待をしていない場合はどうでしょう。そういう「裏」はまったくありえないでしょうか?もし、反省しているのなら(もしかしたらすでに警察に事情を聴かれた、起訴されていたかもしれません)その拡散はいつ停止されるべきでしょうか?誰が最後までその結果を追跡し、参加者に報告するのでしょう? 

また、写真には日付が載っていない場合が最近は多いです。5年前とかのガセネタが周期的に流行ることはネットではよくあることです。そうすると、5年後10年後、その人物が家族を持ち、もしかしたらペットも飼ってその素晴らしさに気付いているのに、自分の顔写真が時々SNSに現れるとしたらどうでしょう? そういう、未来の「裏」はありえないでしょうか?

そうであっても、やはり動物を苦しめた罪の代償として「拡散」されるべきなんでしょうか?その拡散を決定するのは一人ひとりの動物を愛する人ですが、拡散に参加することでその人物への制裁に加担しています。その自覚はあるのでしょうか?

ひょっとしたら、「拡散」することで、自分も積極的に動物を守る運動に貢献している、という錯覚を感じ、満足感を得ている、という可能性はゼロでしょうか?

肖像権という視点から見ても、拡散はその権利を侵しているとみることはできないでしょうか?日本人の中には自分の顔がSNSに流れるのを嫌う人が多いようですし、それは当然の権利です。肖像権はすべての人間に平等にあるもので、動物を虐待した段階で剥奪されるものではありません。拡散するのは気軽にクリック2回ぐらいで完了しますが、それで肖像権を無視しているという自覚を持つひとは少ないと思います。

実は「顔を晒す」ということそのものが「拡散」する人たちが行使している「制裁」なのかもしれません。つまり「拡散=制裁」。

だとすると、恐ろしいことだと思いませんか?私はそう思います。
制裁をする権限はいったいどこから生まれたんでしょう?

人類は長い間かけて、法治国家を作ってきました。まだ完全ではないし、完全になることはないでしょうが、それでも「法」が人を裁く社会システムを作ろうとしているところに、各個人がそれぞれの基準で一方的に断定し、ほんの少しかもしれないけれど、制裁を加える側になることはどうとらえるべきでしょう?

「拡散」は止むことはないと思うし、「拡散による暴力」は積極的な攻撃方法としても使われています(例:スポーツ選手の流出したプライベート写真)。中には写真をねつ造して特定の個人を陥れるようなことをする人が出てくる可能性も否定できません(技術はとっくに存在していますから)。

私は自分の子供たちに、こういった「拡散」のパーティーに参加する前に、かならず批判的精神でもって自分の知識と経験と思考力を総動員して、どうするか判断してほしいです。そして、その模範となるように親として振る舞おうと決意しました。

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