2014年2月23日日曜日

ダイエットを成功させるための唯一の方法=空腹に慣れる

自分の経験

1.計るだけダイエットを試してみたけど、上手くいかなかった。運動するなり食生活を変えてみたり、などなんからのアクションがなければ上手くいかないのは当たり前。

2.ダイエットを目的に運動をしてみた。おそらく1年以上のスパンで。ただ、運度量はあまり多くなかったので結局殆ど変化は無かった。体調はよくなったとおもうのでプラスはある。

3.毎日消費するカロリー量を減らしてみた。みるみる痩せて、夏の終わり頃から秋の終わりごろまでに82キロが73キロぐらいまで落ちた。しかもこの期間は得に運動には力を入れていなかった。


太る仕組み

太る理由を説明するフォーミュラは単純で誰にでも分る。

1日に摂取するカロリー > 1日に消費するカロリー

余剰分は質量保存の法則に基づいて体に貯蓄され、太ります。


運動するということは・・・

運動するということは、この「1日に消費するカロリー」を増やして、この不当記号の向きを「<」にしようとしてるわけですね。それは間違いではない。通常以上にカロリー消費を増やす(カロリーを燃やす)方法はいまのところ運動しかありません。

運動には以下の特性があります。


  • 時間を要する(走っている間、時間は経ってきいます)
  • コストがかかる(靴だって消耗します)
  • 怪我をするかもしれない=> 中断を余儀なくされることになる(絶対に怪我をしないという保障はない)
  • 飽きるかもしれない(人間、なんにでも飽きるときが来ます。そしたら別の運動を探す?)
  • それほどカロリー消費しない(ドレッドミルで消費カロリーの数値を見てがっかりしたことありません?)


運動を始めそして継続するにはこれらの条件を飲まなくてはいけません。さらに継続していても、怪我や時間の問題で(急に自分以外の事情で毎日のジョギングができなくなる等)、中止になる可能性も有ります。その時は、また太り始めることになります。

運動してカロリーを燃やすパターンのダイエット方法はやめた方がいいです。うまくいかない可能性の方が高いので。


残された唯一のダイエット方法

「1日に摂取するカロリーを減らす」しか残っていません。これしかないのです。しかもこの方法の方がずっと合理的で、成功しやすいと思います。

じゃあどうやって摂取するカロリーを減らすか。

いろんな理由で「1日に摂取するカロリー」を減らせないわけだけど、その中でも、たとえば会社の付き合いとかでどうしても減らせない(上司に向かって、ダイエットしてますから遠慮します、とは言いにくい)といった場合はもう仕方ないと思います。

ただ、自分でコントロールできるカロリー分はかならずあるはずです。なのでそのコントロールできる部分で減らすのです。


空腹に慣れる

「ご飯を抜く」というのは絶対にやってはいけないと思います。苦痛のレベルが高すぎるので続きません。続くことが成功の条件です。

ご飯には「質」と「量」があります。

質は、たとえばドレッシングのタイプをカロリー控えめに変える。例えば、冷蔵庫に入れておくドレッシングを全て低カロリーにする。食べるものそのものをサラダ系にする、など。

量は、私の場合は「米のご飯」と「パスタや麺類など」の量を減らしました。いつもお弁当とご飯を作ってくれる妻に「今までに比べて半分でお願いします」とお願いしたのです。


人類はずっと空腹状態が普通だった

動物界を見てみると、動物の通常の状態は「空腹」です。ほぼすべての動物がこの「空腹」を消し去る(満腹か、その途中)ために、文字通り日夜努力しています。

人間だって動物です。ここ数十年までだって人間の多くは(そして今現在も世界中のいたるところで)一日のうちの殆どの時間を「空腹」状態ですごしてきました。もちろん、食事をとれば「満腹(空腹の不在)」の状態になりますが、それも長くは続きません。

人間にとって「空腹」を感じている状態がノーマルであって、「満腹」の状態(および「空腹ではない状態」)はほんの短い時間に経験する状態なのです。

ですから、カロリーを減らした結果として経験する「お腹空いたな~」の状態が普通であり、「あ、今自分は普通の状態だ」としっかり認識することが大切です。「お腹空いた!なにか食べないと!」っていうのは異常です。

こうやって「空腹」の状態を良しとする認識ができれば・・・

ダイエットは苦しくない

という状態なるわけです。

ダイエットが苦しく感じるのは、なにか異常にがんばっているという認識があるから。

これが人間の普通の状態~♪ と知ることが精神的にも楽にさせてくれます。

2014年2月19日水曜日

「拡散」という暴力

SNSで「拡散希望!」とある投稿をたまにみます。内容はいろいろありますが、中でも「動物虐待犯!」といって虐待の現場と虐待をしていると思われる人物の写真をのせ、「ゆるさない」というような扇動的な言葉でSNSの中を、善良な動物を愛する人たちの手によって広がっていきます。これらの投稿をみながら「拡散」することの意味を考えてみました。

例として、一匹の小型犬を首つり状態にし、二人の若い男性が中指を立ててカメラに向かって笑いながらアピールする写真がありました。投稿した人たちは「ひどい」と憤慨し、私は軽率にも「犬はたしかにかわいそう。だけど国や文化、事情なども考慮すべき」といって暗に投稿を批判してしまいました。投稿した人は「動物を苦しめることはいかなる文化・国でも悪」だし「この写真に裏も表もない(つまり彼らは見た通りの悪い人たちだ)」という返答をいただきました。険悪になるのもよくないので気分を害したことを私は謝罪したんですが、やはりどうなんだろうと考えていたのです。

結論としては、私の意見としては、裏も表もある可能性を考慮して拡散するかどうかの判断をすべきだということです。

例えば、この写真の場合、明らかに日本人とは異なる容貌の人物でしたので、すぐに画像検索したら、やはり同じような印象を得た人たちの意見がみつかりました。東南アジア、とくに犬を食文化の一部として扱っている国の人では・・という意見もありました。第一の違和感はそこです。それがどこの国の人かが重要ではなく、私が真っ先に感じたのは・・・

日本人同士が日本語で外国人である可能性のある人物の写真を拡散することにいったいどういった効果があるのだろうか・・・? でした。

もし「犯人を突き止める」のが目的ならば、あまりにも無意味な方法でしょう。冷静に「そもそもこれは日本人?私が日本人フレンド中心のSNSで拡散して効果がある?」と自問すべきだと思います。

次に、かりに日本人だとしても「SNSで拡散」することがもたらす結果とはいったいどうんなものがあるのでしょう?その顔を見たらピンとくる人までにその投稿がリーチしないことには結果に結びつきません。大抵の場合、その人物を特定できる段階に到達する前に「拡散の連鎖」が終わってしまうと考えるのが自然です。

じゃぁ仮に、到達したとしましょう。「あ、これは俺の友達の○○だ!」と思った人のフィードに流れていったとしましょう。それからどうなるか・・? その人は「これはどこどこに住むなんとかってやつだ」って投稿をするでしょうか?いや、もしかしたらSNSで友達かもしれないし、親友かもしれない。そうだとすると、到達したとしてもそれからなんらかの制裁に繋がる可能性は低いと思います。せいぜい、「おい、お前ひどいことしてんだな。やめろよ」と忠告される程度でしょうか。

ひとつだけ、制裁に繋がる可能性があるとしたら、その虐待をしているらしき人物の「敵」に投稿が到達した場合です。その場合、極端なケースでは警察に行ってその写真を見せ、その人物の身元を明かすかもしれません。ただ、もしそうなったとしても、警察は動くでしょうか?私は分かりません。ただ、これが拡散することで得られる最大の成果でしょう。

この成果を得られるまで「拡散」に加担したひとはキャンペーンを続けていくのでしょうか?おそらくNOでしょう。一過性の行動であることは間違いないでしょう。虐待された動物の飼い主でない限り、それほど関わろうとする意志は持続しないと思うのです。「拡散」に参加した、という段階でおそらく満足であり、制裁されるまで満足できない、という姿勢ではないでしょう。

さらに、別の見方をしてみます。この虐待をしている人物が「反省・改心」して、今は虐待をしていない場合はどうでしょう。そういう「裏」はまったくありえないでしょうか?もし、反省しているのなら(もしかしたらすでに警察に事情を聴かれた、起訴されていたかもしれません)その拡散はいつ停止されるべきでしょうか?誰が最後までその結果を追跡し、参加者に報告するのでしょう? 

また、写真には日付が載っていない場合が最近は多いです。5年前とかのガセネタが周期的に流行ることはネットではよくあることです。そうすると、5年後10年後、その人物が家族を持ち、もしかしたらペットも飼ってその素晴らしさに気付いているのに、自分の顔写真が時々SNSに現れるとしたらどうでしょう? そういう、未来の「裏」はありえないでしょうか?

そうであっても、やはり動物を苦しめた罪の代償として「拡散」されるべきなんでしょうか?その拡散を決定するのは一人ひとりの動物を愛する人ですが、拡散に参加することでその人物への制裁に加担しています。その自覚はあるのでしょうか?

ひょっとしたら、「拡散」することで、自分も積極的に動物を守る運動に貢献している、という錯覚を感じ、満足感を得ている、という可能性はゼロでしょうか?

肖像権という視点から見ても、拡散はその権利を侵しているとみることはできないでしょうか?日本人の中には自分の顔がSNSに流れるのを嫌う人が多いようですし、それは当然の権利です。肖像権はすべての人間に平等にあるもので、動物を虐待した段階で剥奪されるものではありません。拡散するのは気軽にクリック2回ぐらいで完了しますが、それで肖像権を無視しているという自覚を持つひとは少ないと思います。

実は「顔を晒す」ということそのものが「拡散」する人たちが行使している「制裁」なのかもしれません。つまり「拡散=制裁」。

だとすると、恐ろしいことだと思いませんか?私はそう思います。
制裁をする権限はいったいどこから生まれたんでしょう?

人類は長い間かけて、法治国家を作ってきました。まだ完全ではないし、完全になることはないでしょうが、それでも「法」が人を裁く社会システムを作ろうとしているところに、各個人がそれぞれの基準で一方的に断定し、ほんの少しかもしれないけれど、制裁を加える側になることはどうとらえるべきでしょう?

「拡散」は止むことはないと思うし、「拡散による暴力」は積極的な攻撃方法としても使われています(例:スポーツ選手の流出したプライベート写真)。中には写真をねつ造して特定の個人を陥れるようなことをする人が出てくる可能性も否定できません(技術はとっくに存在していますから)。

私は自分の子供たちに、こういった「拡散」のパーティーに参加する前に、かならず批判的精神でもって自分の知識と経験と思考力を総動員して、どうするか判断してほしいです。そして、その模範となるように親として振る舞おうと決意しました。

2014年2月16日日曜日

肉を食べること、そして人はなぜソーシャルネットワークにはまるか・・・

いったい「肉を食べる」ということはどういうことなのか、っというのをいろいろと考えてみました。最初はFacebookに書いてたんですが、ちょっと内容があれなんで、ブログで独り言。



まず「共食い」、しかも「人間が人間を食べる」ということから始めてみます(いきなりグロくてすみません)。それがなぜそれほどまでに忌まわしい行為かとされているかを考えてみると、

「食べる」の前提である「殺人」を忌み嫌う
「自分が食べられる可能性」への恐怖
「種の保存という目的と矛盾する」ことへの本能的拒絶

っといった理由が考えられると思います。

つぎに人間以外の「共食いをする動物(例えばカエル)」を見るときもやはり人間は嫌悪感を持ちますが、その理由は?

人間同士の共食いと比べると「人間である自分が食べられる可能性」はゼロですから、その分の嫌悪感は差し引かれるはずです(カエルが人間を食べるとき、それは共食いではありませんから)。また種の保存という点でも、自分は別の種に属するので「勝手にやってろ」ぐらいの気持ちで納まります。それでもどこかに「共食い」を嫌う感情が人間にはあると思います。

ここまできて何か他にもっと決定的なものがあるんじゃないかと考えて結果、

「感情共有している対象」を殺害し捕食する、

というのがあるのではないかと思ったのです。

人間はもちろんのこと、感情をもっているされる動物の個体の間には、程度の差はあるけれど「感情の共有」が存在しているはずです。犬が二匹じゃれあったり、ペンギンのつがいが卵を一生懸命育てたり、狼が群れで狩りをしたりする時、そこに感情の共有(人間の想像も含めて)があるとされます。

感情の共有は同種間では異種間よりは多いと考えられれますが、異種間にも存在するようです。一番分りやすい例が、人間が犬にエサを上げて犬が喜び楽しい感情を共有する。よくは知らないけれど、人間を除く異種間同士での感情の共有は存在するかもしれません(共生という仕組みが存在します)。

というわけで、人間は感情共有している(できる)個体間で「捕食」が起こることをとても嫌うのではないかと思うわけです。

そして感情の質が高く、その共有の結びつきが強いほど、嫌悪する感情エネルギーも多くて強いと思うのです。例えば、同じ種のアメーバAがアメーバBを食べるのを見るときと、人間に近いとされる種の猿Aが猿Bを食べるのを見るときとでは、嫌悪感の度合いは異なり、猿のケースの方により嫌悪感をいだくと思います。

では「共食い」から離れて、異種間での捕食、とくに人間が他の動物を食べるパターンを考えてみます。

人間はいろんな動物を食べますが、国や文化で食べる対象が様々です。牛、馬、豚、羊、鶏、魚、昆虫などなど。

そして、食べていい動物と食べてはいけない動物もそれぞれで、国や文化の間では正反対になるケースもあるようです(牛を食べず豚を食べる vs 牛は食べるが豚は食べない)。

ここでは「なぜ食べるか」ではなく「なぜ食べないか」を考えてみようと思います。「なぜ食べるか」はおおよそタンパク源として、という理由で、中には珍味といった理由もあるでしょうが、概して「空腹を満たす」という理由が最大のものでしょう。

なぜ食べないか・・・ 宗教などの枠組みで食べない、という理由が多いようです。ただ、ここではそういった行動を制限する枠組み、つまり「食べたいと思わなくもないけど食べてはいけないとされているから食べない」ではなく、自主的に「食べたくない」と思う理由を考えてみようと思います。

昆虫を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)
魚を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)
鶏をたべたくない(もしくは食べる人間を嫌う)
牛を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)
馬を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)
犬を食べたくない(もしくは食べる人間を嫌う)

ここでは意図的に一般的に信じられている知能のレベルで低いものから高いものを順番に並べてみました。

それぞれの行を読みながら自分に沸き起こってくる嫌悪感は下に行くほど強くなるようです。一般的にもおおよそ同じだと思います。

これはなぜかといういと、知能→感情がある→存在する感情を共有できる

ということだからではないか、っと思うわけです。

この図式、別の言い方をすれば「知能の低い動物は食べてもいい」といっているわけですね。例えばイルカや鯨を捕食することに反対する人はよく「イルカは実は人間なみに賢い」という風に言いますが、それはこのパターンに沿っているわけですね。

ちなみに「嫌悪する」は捕食の主語に向けられる感情ですが、目的語(食べられる方)に向けられる感情は「同情」です。 食べられる牛に対する同情の念、食べられる豚に対する同情の念、食べられる犬に対する同情の念、それぞれあります。感情共有できる、知能の高い動物が食べられることの方がそうでない場合より人間には耐えられない同情の念を引き起こすわけです。

話を戻して「感情を共有」できるかどうかのパラメーターが「食べていいか、食べてはいけないか」(食べられたときに同情を得れるか得れないか)を決定するならば、人間は生存本能として「感情の共有ができること」を積極的にアピールするはずです。逆に感情の共有をせず、同情を得られない状態の時はどうでしょう。人間は人間同士の共食いをしないので(ありがたい!)食べられる可能性はないけれども、「そうでなかったら食べられてもかまわないぐらいの存在」と思われるのだとしたら大変です。

人間がソーシャルネットワークなどで自分の体験や感情を共有する動機のひとつに、こういうものがあったりするのかもしれないな・・・などと考えていました。